麒麟がくる斎藤道三(本木雅弘)が美濃のマムシと呼ばれるわけとは?明智光秀とは師弟関係?

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戦国時代、多くの大名に「美濃のマムシ」として恐れられた斎藤道三。
どんな手を使ってでも敵を討ち果たしてきた人物として知られています。
そんな道三は意外にも、最初から美濃の大名として君臨していたわけではありませんでした。
道三の経歴や、戦術を踏まえながら、光秀との関係性を紐解いていきたいと思います。

麒麟がくる 斎藤道三を演じるのは本木雅弘さん

明智光秀がまず初めに仕官した斎藤道三を演じるのは、みなさんご存知、「モッくん」の愛称で知られる本木雅弘さんです。

1965年生まれの埼玉県桶川市出身です。
1982年にシブがき隊としてデビューされました。
1988年にシブがき隊が解散した後、俳優として芸能活動を行っています。

主な出演作にドラマだと「ブラック・ジャック」シリーズ・「運命の人」、映画は「226」・「おくりびと」・「日本のいちばん長い日」がありますね。
NHK大河ドラマでは1998年放送の「徳川慶喜」主演以来の出演になります。

俳優としての実力、実績ともにある日本を代表する名俳優です。

過去に、受賞した賞と作品をまとめてみました。

日本アカデミー賞
・最優秀主演男優賞
1992年 「シコふんじゃった。」
2008年 「おくりびと」

・最優秀助演男優賞
2015年 「日本のいちばん長い日」

・新人俳優賞
1989年 「226」、「べっぴんの町」

東京国際映画祭
・男優賞
1993年 「ラストソング」

などといった格式高い賞を受賞されています。

今作『麒麟がくる』ではクセのある斎藤道三を見事に演じています。

Twitterでは、第二回の放送後、視聴者側からは、道三が婿である土岐頼純を茶で毒殺したシーンはかなり反響が大きく、本木さんがCMをしている『伊右衛門』のワードがトレンド入りし、

「もう伊右衛門が飲めない」
「伊右衛門が道三が作った茶にしかみえなくなる…」

といったツイートが目立っていました。
そのくらい視聴者を圧倒した演技でした。
伊右衛門のCM大丈夫!?麒麟がくるで本木雅弘さんが敵に毒入り茶の演技が話題に

今後の道三の演じ方にも注目されています。

斎藤道三はなぜ「美濃のマムシ」と呼ばれたのか、その壮絶な人生とは?

斎藤道三は、美濃の守護代として父と二代で、美濃の守護・土岐氏に召抱えられ、徐々に守護代としての地位を獲得してきました。

しかし、道三がかなり非道な手段で下克上を行ったことから、「蝮(マムシ)」(は、エサを鵜呑みにしてしまう恐ろしい生き物)という異名が付けられたと考えられています。

まず、道三の経歴からご紹介していきます。

父は京で『山崎屋』という名前で油を売っていました。
文献によると、道三は商人としての才覚が秀でていたようです。

その後、どういうわけか武士になることを志した親子は、知り合いの僧侶を頼り、美濃小守護代の家臣となりました。
もしかすると、商人としての才覚を武士としての才覚に転身することで貧乏からの脱却を狙ったのかもしれません…。

美濃の守護は土岐頼芸がその当時担っていました。
長井長弘の家臣としてメキメキと力をつけた道三は、長井長弘の主・土岐頼芸にも実力が認められるようになりました。

一方で、成り上がりものとして認められた道三を気に食わなかったのが長井長弘でした。
長弘自身がスカウトした家臣をよりによって自分の主である頼芸に認められ事に不満を持ちました。

そのことに瞬時に気づいた道三は、長井長弘を謀殺し、長井氏の居城であった「稲葉山城」を乗っ取ってしまったのです。

これが「マムシ」と呼ばれた最初の理由だったのです。

1536年、甥と家督争いが勃発しました。
実力を買われた道三はもちろんのこと、頼芸に付きます。
頼純派だった近江の六角氏が頼芸派へと寝返り、次第に頼芸派が優勢となりました。

その後1539年に和議へと持ち込み、一旦、家督争いは終了します。

この争いを機に、道三は土岐氏の乗っ取りをたくらみ、まず土岐頼満を毒殺します。
このことに対して頼芸が危機感を持ち、道三に反発しました。
磐石でない土岐氏の勢力を見越した道三は、頼芸と息子の頼次を尾張へと追放してしまいます。

このことにより、確実に土岐氏の勢力を削っていき、ついに、美濃の実質の守護として君臨しました。

その後も道三は自分に反発する国衆たちを徹底的に潰していき、従順させていきました。

さらに土岐氏との結びつきと、行動を把握するために、正室との子である帰蝶(濃姫)を土岐頼純に嫁がせます。

しかし1547年、土岐氏の勢力回復を狙った土岐頼純が尾張の織田信秀(信長の父)と密かに内通し、美濃を攻め入りました。
この戦いを加納口の戦いと言います。

織田信秀軍を撤退させた道三はその後、土岐頼純を毒殺します。

その後も道三は土岐氏への勢力削りは怠らず、1552年には、土岐頼芸は二度目の追放をされてしまいます。

道三による美濃の支配を確実なものへと導いていきました。
そして1554年に、剃髪(出家)し、家督を嫡男である斎藤義龍に譲りました。

隠居後も少なからず権力を持っていた道三に対し、息子の義龍はとても警戒していました。
なぜなら、義龍は側室・深芳野の子であり、正室の子である孫四郎や喜平次を道三はとても可愛がっていたため、後に自分を廃嫡するのではという危機感を常にもっていたようです。

それが引き金となったのかは諸説ありますが、義龍はついに挙兵し、道三は息子により殺されてしまいました。
それが長良川の戦いです。

斎藤道三と明智光秀の関係は師弟関係!?

明智光秀が斎藤道三に仕官していたという資料は少なく、いまだ謎とされています。
光秀のことが少し詳しく載っていた資料では、光秀が朝倉氏の領地におり、室町幕府15代将軍・足利義昭の足軽衆として仕えていたことが記されていました。
そこから『明智』という名が出てきて、明智光秀が足利義昭に仕える以前に、守護代の斎藤道三に仕えていたということが分かりました。

そのため、道三に仕えていた時の光秀の立場が詳細に記された資料は無く、想像でしか光秀と道三の関係性を明確にすることしかできません。

しかし、「麒麟がくる」の中では、光秀が道三に直接鉄砲の使い方をレクチャーしたり、旅費を請求できる立場であることが伺えます。

このような描き方をしたのには2つの史実から読み解くことができます。

一つ目の理由としては、明智光秀の叔父・光安と道三の正室・小見の方は実兄妹でした。
故に、道三にとって光秀は系図上、甥にあたります。
そのことから、道三との親戚づきあいはあったのではと推測できます。

二つ目の理由としては、光秀が信長に仕えていたときに武士としての才能が秀でていたということが有名だったので、道三の時からも優秀だったのではと推測したからだと考えられます。

麒麟がくる斎藤道三(本木雅弘)が美濃のマムシと呼ばれるわけとは?明智光秀とは師弟関係?まとめ

道三は、成り上がるためにはどんな手を使ってでも敵を倒してきました。
それが祟ったのか息子に殺されてします。
しかし、武士ではない低い地位からのスタートだったからこそ、道三は生き残るために強硬手段を選ばざるを得ない境遇だったのかもしれません。

今後の「麒麟がくる」の中で、どのように土岐頼芸と対立していくのか、また、道三が息子・義龍と接していくのかが注目を浴びます。

まだまだ「麒麟がくる」には見所がありそうです。

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