麒麟がくる三好長慶は(山路和弘)はなぜ襲撃計画に遭ったのか?その後はどうなるの?

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大河ドラマ「麒麟がくる」第6回はいきなり細川晴元と三好長慶の争い(天文17年)からスタート。
十兵衛もオープニング画面も出て来ません。
チャンネルを間違えたと思った方も多かったのではないでしょうか。

日本史の教科書では、室町幕府の実権は将軍足利家から管領の細川氏、そしてその家老の三好氏へと習いましたが、どのように移っていったのかという記述はありませんでした。
これまでもこの時代を写した小説やネットの解説はあるにはありましたが、馴染みのない、よく似た名前の人物が次々に登場しては退場し、また登場してくるといった塩梅で頭の中はパスタ状態となってしまいます。

今回はそんな方々を対象に「麒麟がくる-—下剋上入門講座」です。

【麒麟がくる】三好長慶を演ずるのは山路和弘さん

下剋上のキーマンはなんと言っても三好長慶。

今回演ずるのは山路和弘さん、大河ドラマは軍師官兵衛(14年)での安国寺恵瓊、いだてん(19年)での村山龍平(朝日新聞社長)に次いで3回目となります。
大河ドラマでの恵瓊の役回りは決まっているようなものなので特に印象は残っていませんが、いだてんでは主人公田畑政治を「顔がいいから」との理由で採用し、あのお堅い朝日新聞がこんないい加減な人事採用をするのかと視聴者を驚かせました。

長慶役を受けるに当たって山路さんはNHKスタッフから「めちゃくちゃ悪そうな感じで」と言われたそうですが、その雰囲気は十分に漂っていました。
松永久秀を光秀の教師役にしたことで、長慶は悪役を引き受けることになったようです。

「イケメン大河」といわれる今回のドラマですが、イケメンだけではドラマは作れませんね。
この襲撃事件があった時の長慶は26歳。山路さんはこれを聞いてさらに驚いたそうです。

三好長慶は主君を脅かす存在だった?

長慶の主君は襲撃事件を企んだ細川晴元、ドラマでは格子の陰から、「チェ、しくじりおって!」と吐き捨てていました。
こちらの方も相当な悪といった登場です。

「元」という字が最後に付いていますので管領に就任する権利のある細川宗家(京兆家)の当主です(同じ細川でも細川藤孝は分家筋になりますので、管領にはなれません)。
晴元は父澄元が阿波に逼塞していた時に現地で産まれていますので、守護代であった三好家とは強く結ばれており、三好元長(長慶の父)に推されて挙兵、父の仇でもある管領細川高国との家督争いに勝利した後、その最大の功労者元長を敗死させるなどして、天文6年管領に就任しました(していないという説もあります)。

この間、家督を継いだ長慶は父の仇でもある晴元と和睦し、若干12歳で石山本願寺との一向一揆調停に大活躍し(今では信じられません!)、晴元の管領就任に大きく貢献します。

しかしながら晴元は同族である三好政長を重用し、長慶との溝は深まっていきます。
晴元としてはあの若造に恩を着せられ、大きな顔をされたくなかったに違いありません。
晴元政権は高国派の残党や側近の対立で不安定な中、長慶は摂津越水城にて着々と地盤を固めていき、ここでも晴元は面白くありません。

長慶は最早劣勢であっても阿波に逃げ帰ることなく自立を果たし、主家を凌駕しつつありました。

そんな中で起こったのが天文17年の襲撃事件でした。

晴元の三好元長・長慶父子に対する仕打ちはいくら戦乱の世の中であっても余りにも酷すぎます。
なお晴元役の国広富之さんは、大河ドラマ「草燃える」(79年)で爽やかに義経を演じましたが、今回はその微塵もなく何とも言えない時の流れを感じさせてくれました。

麒麟がくるで三好長慶の襲撃計画に遭ったその後を予想!

襲撃計画は天文17(1548)年、長慶は越水城、義輝と晴元は京都にいました。
これ以降の畿内及び光秀・信長に関する出来事を見て、その後を予想してみましょう。
 天文18(1549)年 長慶、将軍父子と晴元を京都から追放。三好政権誕生
天文21(1552)年 六角義賢の調停により義輝と長慶和睦、晴元若狭へ。織田信秀死
天文22(1553)年 長慶、義輝を近江朽木谷へ追放
弘治2 (1556)年 道三、長良川の戦いで義龍に敗れる。光秀、浪人となる。
 永禄元 (1558)年 白川口の戦いで長慶、義輝・六角軍を破る
 永禄2 (1559)年 信長、義輝謁見のため、兵100人を連れ上洛。松永久秀、大和拝領
 永禄3 (1560)年 桶狭間の戦い
 永禄6 (1563)年 3月晴元死(50歳)、6月三好義興(長慶の実子)死
永禄7 (1564)年 5月 長慶、晴元の弟安宅冬康を謀殺
6月 長慶の養子義継、義輝謁見、7月 長慶死(42歳)
 永禄8 (1565)年 義継上洛し、義輝弑逆
 永禄10(1567)年 信長、美濃攻略
 永禄11(1568)年 信長、義昭を奉じ上洛
襲撃計画から義昭を奉じた信長上洛まで丁度20年。
畿内はまさに戦乱の嵐が吹き荒れています。
しかし、よく見るとその構図は義輝と晴元が負けても負けても再起して、長慶に挑むというものです。
長慶としては、名目だけの将軍・管領であっても居なくなってしまえば自らの政権基盤が崩壊してしまうとでも考えていたのでしょうか、また主殺しは避けたかったのでしょうか、トドメを刺すことはしませんでした。
「恩」が解らない晴元は論ずるまでもありません。
義輝は剣豪将軍として人気は高かったようですが、征夷大将軍としては京と近江を行ったり来たり、戦に強いとはとても言えなかったようです。

さて弘治2年光秀は浪人となりました。
うち続く戦乱の世と浪人の光秀—-―-光秀の生涯で最も不明なかつ人間形成に重要な時代が初めて大河ドラマで描かれます。
司馬遼太郎の「国盗り物語」は、光秀がこの年に義輝のいる朽木谷を訪れ、油泥棒を働いた細川藤孝と出会うことから浪人時代を始めています。
しかしドラマでの二人は既に出会っており、その折藤孝は十兵衛に将軍家仕官を勧めていました。
これをつてに十兵衛は朽木谷を訪れ、藤孝と幕府再興を誓い合いますが、残念ながら落魄した義輝に十兵衛を召し抱える余裕はありません。
仕方なく十兵衛は京へ向かい、医師東庵のもとに身を寄せます。
十兵衛は医術を学びながら市井の人々の想いを体感し、久秀を通じて畿内の争いにも拘わり、「麒麟がくる世」を連れてくることが自らに課された使命であることを自覚して行くのです。
近年、光秀が医者であったことをうかがわせる古文書が熊本市で発見されていますのでこの展開の可能性はかなり高いと思われます。
医者ですから細川家への出入りは当然あったと考えられますし、細川家のお抱え医師になることも可能です。光秀が細川家の家臣であったという説がここで産まれます。

年表を見ればお分かりのように、道三死後も戦乱の世が義輝弑逆まで10年程続きます。
この間永禄2年、帰蝶の夫信長が上洛し、十兵衛は鉄砲隊が都大路を歩く様を初めて目にします。
鉄砲の扱いなら誰にも負けない自負を持つ十兵衛ですが、鉄砲隊の持つ迫力に圧倒され、
鉄砲には抑止力だけでなく、時代を切り開いていく力があることを感じ取ります。
しかし十兵衛が世に出て時代を切り開いて行くにはもう暫く時が必要なのです。

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